
思えばかつてラリーを志し、「走りたい」気持ちだけを頼りにまさに突っ走ってきたと言っていいでしょう。学生時代は、朝から晩まで丹沢山系を走っていました。クルマを操る喜び、難しさを実感しつつ、とにかく走り回っていました。大学卒業後は誰しもそうするように就職し、13万5千円の初任給すら全てクルマにつぎ込んでいましたね。その甲斐あってか、いすゞ自動車から声をかけてもらって全日本ラリーを走ることになりました。そして、1986年にいすゞのサポート隊で、英国で行われていたRACラリーに帯同したんです。そのときも日本ではそこそこに走れるつもりでいましたが、海外ラリーのスケールのでかさにはドキモを抜かれましたね。
ステージの長さもスピードもオーガナイズ規模も日本のラリーとは全く比べ物にならないもので、それはそれは大きなショックを受けました。そして、やる以上挑戦してみたい、と思いました。もともと「チャレンジ」が大好きなんです。

その後テインを設立し、商品開発の場を求めて海外ラリーに出かけるようになりました。自チームの「テインスポーツ」として、ジェミニ、パルサーGTIR、ランサーエボリューションを持ち込んでアジア、オセアニアを走り回りました。そんな日々を送る中で、1993年にトヨタのワークスドライバー・オーディションを受けることになりました。私自身が進んで志した訳ではないんですが、トヨタチームヨーロッパ(TTE)代表のオベ・アンダーソンから直接「オーディションを受けてほしい」と言われたんです。それは断る訳にはいかないでしょう。実は予定されていたオーディション当日は、香港・北京ラリーのレッキの日だったんですが、それをキャンセルして英国のシルバーストンに飛び、テストを受けました。基本的なラリーパフォーマンス、レギュレーション習熟度およびコミュニケーション能力が試され、他に4人の日本人ドライバーが来ていましたが、残ったのが私でした。「プロになる」という責任感と不安で、とにかく複雑な気持ちでした。

その後ドイツのケルンでプロドライバーとしての特訓を受けました。なにせWRCに出場するには、左ハンドル車に慣れなければならないので、練習中も移動中も日本に戻っても左ハンドルのセリカに乗り続けました。これがなかなか慣れなくて閉口しましたが、オベもかつて右ハンドル車でラリーに出場したとき苦労したので、私には徹底的に慣れさせる必要があると感じたんでしょうね。フィジカルトレーニングも始まり、毎日ジムでのエクササイズやドライバーとしての反射神経のトレーニングや持久力を高めるためのレッスンを叩き込まれました。ある程度覚悟していたとはいえ、プロスポーツの厳しさを嫌というほど体感しました。そして、プロデビューを果たしたサファリラリーに向けて辛い日々が続いていきます。

ある日、日本人ドライバー育成計画の仕上げとして、1995年のサファリラリーに勝て、とオベ・アンダーソンから話がありました。前年のサファリはデビュー戦ということもあり、あっさりとリタイヤ。その後アクロポリスとニュージーランド、そしてRACに出場しました。チームメイトはトップドライバーのユハ・カンクネンとディディエ・オリオールです。彼らから大いに刺激され、私もパフォーマンスや安定性を身につけていきました。そして至上命令のサファリ優勝に向けて、地獄の特訓が始まったのです。年明け早々、オーストリアで3週間の基礎トレーニングがありました。
一般的なエクササイズの他、スキー、山登り、自転車、シャドーボクシングや座禅というメニューもありました。筋力・持久力と精神力のトレーニングだったんです。おかげで課題だった心臓の強化には、成果がありましたね。そしてケニアに向かいました。5ヶ月滞在し、サファリ優勝だけを目的にした日々を送ったのです。3000kmのコースを8回走り、コースは全て熟知しました。しかし、雨が降るとあっというまに大洪水になって地形が変わってしまったり、キリンや象などの動物に走行を遮ることもまれではありません。サファリでは、何が起きても不思議はない、とよく言います。英語では、Anything can happenといいます。実際に本番では、自信を持って臨んで初日に15分のリードを築いたにもかかわらず、二日目にタイヤ選択を誤ったこともあってロールオーバー。これで苦労も水泡かと思いましたが、三日目をキープペースで走って優勝を遂げることができました。表彰式の後、チームメイトたちから何度もホテルのプールに投げ込まれたりしましたが、オベも本当に喜んでくれたし、感無量でしたね。「サファリ」とは、スワヒリ語で「旅立ち」を意味するんです。まさに「挑戦」にふさわしいステージでした。この挑戦がまさにテインの出発点であり、フィロソフィーの根底になっているのです。
|